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山田露結ブログ

about Rockets Yamada

「えっ?」

俳句

「あることでちょっと心を痛めてて。」

「へぇ、よかったじゃん。」

「えっ?」

「きっといい句が詠めるよ。」

 

 

 

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ヴィシャス忌

俳句 俳句的音楽

ヴィシャス忌やドレミファソラのあとのシド   山田露結

 

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高野素十を読む 山田露結

俳句 俳句作品 俳句評

蝶々迅く飛びにけり

 

 素十の俳句は可愛い。私は俳句をはじめてまだ間もない頃

に初めて素十作品に触れたときから今までずっとそう思い続

けてきた。私が抱いているこの「可愛い」という感覚はいっ

たいどういうものなのだろうか。今回、あらためて素十作品

を読み返しながらそのことについて考えてみようと思う。

たとえばこんな句がある。

 

 風吹いて蝶々迅く飛びにけり

 

 飛んでいる蝶が風に流されてすーっと移動する一瞬を捉え

た句である。気にとめずにいれば見逃してしまいそうな他愛

無い瞬間を的確に捉えているように思われるのだが、ここで

の蝶の動きが私には実にぎこちなく、それゆえにずいぶん愛

嬌のあるものに思えるのである。

 私が感じるぎこちなさとは何だろうか。この句では詠む対

象を蝶の一瞬の動きのみに限定することによって小動物とし

ての蝶の躍動感とか生々しさといったものが一切排除されて

しまっている。つまりこの蝶はまったく生きている感じがし

ない。まるで人形劇に登場する蝶のように細長い棒が付いて

いて舞台の下で誰かが操っているかように思えるのである。

蝶本来の動きを伴わない動き。そのぎこちなさゆえに、この

蝶の姿は何ともコミカルなものに映るのである。

 同様のことは次のような句についても言える。

 

 歩み来し人麦踏をはじめけり

 空をゆく一とかたまりの花吹雪

 翅わつててんたう虫の飛びいづる

 自動車の止まりしところ冬の山

 

 一句目、歩いて来た農夫が歩いて来たのと同じ調子で淡々

と麦踏みをはじめる。やはりここでの麦踏みの人も生きてい

る感じがしない。まるで「歩いて来る」→「麦を踏む」とい

う単純な動作を永遠に反復し続けるからくり人形を見ている

ようである。

 二句目、花吹雪に対する「一とかたまり」という把握によ

って花吹雪がひとつの大きな物体となって空を移動してゆく。

あたかも、板に描かれた一枚の大きな「花吹雪」の舞台装置

が書き割りの空を移動してゆく場面のようでもある。

 三句目、天道虫が飛び立つ前にぱっと翅を開いた一瞬を見

逃さずに捉えてはいるもののこの天道虫は本物の天道虫では

なく、翅がふたつに割れて飛び立つ仕掛けの天道虫型の玩具

のように思えてしまう。

 四句目、これなどもブリキで出来た玩具の風景の中を走る

ゼンマイ仕掛けの自動車がちょうどブリキの雪山の前でゼン

マイが切れて止まったという風に見える。ブリキの自動車の

中には同じくブリキで出来た無表情な運転手の姿まで見える

ようである。どれもこれも実に「可愛い」句である。

 素十はどのようにしてこのような「可愛い」句を得ること

が出来たのであろうか。三句目の「翅わつて~」の句につい

て、山本健吉が「定本 現代俳句」(角川選書)の中で次の

ように述べている。

 

 「翅わつて」とはこまかいところを見つけたものである。

誰でも天道虫の飛び出す直前の動作は見て知っているのであ

るが「翅わつて」とは言い取ることが出来ないのである。こ

れは小動物の可憐な動作をはっきり捕らえている。素十にと

っては、愛情とは凝視すること以外ではないのだ。

 

 「愛情とは凝視すること」と言われるとなるほどそうかと

も思うが、果たして素十は天道虫だけに愛情を注いで「凝視」

していたのであろうか。「凝視」というと何だかただ一点の

みを穴のあくほど見つめて見つめて見つめ倒すといった感じ

がする。確かに「凝視」していたには違いないのだろうが私

はそれだけではないような気がしている。素十は「無心の眼

前に風景が去来する。そうして五分―十分―二十分。眺めて

いる中にようやく心の内に興趣といったものが湧いてくる。

その興趣をなお心から離さずに捉えて、なお見つめているう

ちにはっきりした印象となる、その印象をはじめて句に作る」

(「定本 現代俳句」山本健吉著/角川選書)と言っていた

らしいが、この言葉を以って私は素十が風景の中の一点だけ

をただひたすら「凝視」していたとは思えないのである。つ

まり素十は漠然とした目の前の風景の中に長時間身を置くこ

とによって、常態を脱して自らを自然と一体化させる術を知

っていたのではないだろうかと思うのである。それは、ちょ

うどヨガの行者がトランス状態に入り込んで行くようなある

神秘的な領域に踏み込む術である。そういう状態になった上

ではじめて偶然目の前にいる天道虫の動きに目を止める。す

ると常態では見ることの出来なかった天道虫の細かい動作の

ひとつひとつを実に鮮明にくっきりと見て取ることが出来る

ようになるのではないか。素十があらゆる対象を(人も動物

も植物も、また命を持たない無機的な存在さえも)優劣なく

等価なものとして認め、句に詠み込むことが出来たのはその

ような一種の解脱状態を得ていたからではないかと想像する。

 そうした視点で素十句を眺めてみるとただ対象物を愛しく

思うというような単純な愛情ではなく、この世のありとあら

ゆる存在に対する平等で深い慈愛を感じるのである。だから

こそ私は素十の句を、その句に詠まれた対象をたまらなく「

可愛い」と感じるのだと思う。

さて、そんな素十の作句信条をうかがい知るために、句集

「初鴉」の素十自身による序文を引いてみる。

 

  私はただ虚子先生の教ふるところのみに従つて句を作つ

 てきた。工夫を凝らすといつても、それは如何にして写生

 に忠実になり得るかといふことだけの工夫であつた。

  従つて私の句はすべて大なり小なり虚子先生の句の模倣

 だと思つてゐる。

   甘草の芽のとびとびの一ならび

 といふやうな句も

   一つ根に離れ浮く葉や春の水

  といふ虚子先生の句がなかつてなれば、決して生まれ来

 なかつたらうと思つてゐる。

 

 素十は自句を「虚子先生の句の模倣」だと述べている。私

にはこの素十の言葉は少し意外であった。「とびとびの一な

らび」という巧みな把握によってしつらえられた素十の「甘

草の芽」に比べると虚子の「一つ根に」も「離れ浮く葉」も

表現としてはどこか舌足らずな感じがするのである。写生に

よる対象物の言葉への転化という点においては素十は師であ

る虚子を凌いでいるようにも思われる。

 素十は切れ字を多用せず、取り合わせや二物衝撃による句

中における詩的飛躍を試みることもなく、ストイックなまで

に狭い範囲、短い時間の中のほんの小さな出来事を一物仕立

てによってシンプルに表現していく。そこには時代性や社会

性、あるいは作者の境涯といった副次的な要素を一切必要と

しない純粋作品としての俳句がある。そのような意味におい

て、私は素十作品を俳句という表現形式におけるひとつの到

達点、完成形だと思うのである。

 

 

 

高野素十三十句抄

 

ばらばらに飛んで向うへ初鴉

とんとんと歩く子鴉名はヤコブ

小をんなの髪に大きな春の雪

歩み来し人麦踏をはじめけり

方丈の大庇より春の蝶

甘草の芽のとびとびのひとならび

風吹いて蝶々迅く飛びにけり

空をゆく一とかたまりの花吹雪

三人の斜めの顔や祭笛

春の月ありしところに梅雨の月

目をつむる顔横向けて髪洗ふ

蜘蛛の糸一すぢよぎる百合の前

大いなる蒲の穂わたの通るなり

蛇泳ぐ波をひきたる首かな

揚羽蝶おいらん草にぶら下がる

翅わつててんたう虫の飛びいづる

食べてゐる牛の口より蓼の花

づかづかと来て踊子にささやける

秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴

また一人遠くの蘆を刈りはじむ

かたまりて通る霧あり霧の中

天の川西へ流れてとどまらず

虻よりも大きな冬の蠅ゐたる

漂へる手袋のある運河かな

大榾をかへせば裏は一面火

一本のあたりに木なき大冬木

自動車の止まりしところ冬の山

女の子枯木に顔をあてて泣く

円きものいろいろ柚子もそのひとつ

雪片のつれ立ちてくる深空かな