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山田露結ブログ

about Rockets Yamada

伊沢三太楼を読む

伊沢三太楼を読む

鶯の声遠き日    山田露結

 

 今から十年ほど前、私がまだ銀化に入会する以前のことである。ある人に俳句をやってみないかと誘われて近くの俳句教室に通いはじめた。通いはじめてしばらくして、その教室の先生から一冊の句集をいただいた。「三太楼句集」がそれである。著者の伊沢三太楼は、私の住む愛知県西尾市のとなり、幸田町出身の俳人である。おそらく全国的な知名度はゼロに近いであろう。しかし、私はこのまったく無名の俳人の句をはじめて目にしたときからずっと、その句の中に描かれている一時代前の日本の田舎の風景とそこで営まれる人々の素朴な暮らしぶりに惹かれ、ことあるごとに句集を開いては、まるでおとぎ話の世界でも覗きこむような気持ちで、三太楼ワールドに浸っていたのである。

夢覚めて隠し子偲ぶ布団かな

瓜番もして兄弟の渡舟守

納屋も亦大藁家なる牡丹かな

水論に敗けて戻りて弥陀づとめ

この村の尼に拾はれ入学す

 一句目、「隠し子」などと言うと芸能人のスキャンダルを思い浮かべてしまうが、おそらくこの場合は、妾や愛人の子ということではなく、何かやむにやまれぬ事情があって、母親がどうしても手放さなければならなかったわが子を偲んでいるのではないかと思われる。二句目、句集には「瓜盗人舟で来ることわかりけり」の句もあるが、「瓜番」、「瓜盗人」と聞けば「先生が瓜盗人でおはせしか 高濱虚子」の句を思い出したりして、ある時代には好んで俳句に詠まれた題材であるようだが、昭和四十二年生まれの私にはまったく実感の伴わないものである。三句目の「大藁家」、四句目の「水論」にしてもしかりであるが、しかしながら、こうした題材に詠まれた風景が、それほど遠い昔のものではなく、しかもそれが私の住む同じ西三河の風景であることを思うと、何ともファンタジックな郷愁を覚えてしまうのである。五句目は捨子だろうか、それとも何かの理由で寺に貰われて来た子供だろうか、このような、現代(少なくとも私の周辺)の生活とはややギャップのある生活風景に、なぜか胸をキュッと締め付けられるようなノスタルジーを感じてしまう。

 三太楼は明治三十年、愛知県額田郡幸田町の農家の次男として生まれる。二十四歳の時にある農家へ養子に入るが、この結婚が三太楼のその後の人生を大きく変えてしまうことになる。三太楼は結婚相手が持っていたという性病に感染し、それが原因で左腕の関節が不自由になってしまう。長い間、通院、湯治を続けるも結局、左肘は生涯曲がらないままだったという。そして当然のように離婚、その後は実家へは戻らず、愛知県岡崎市中島町の浄光寺に身を寄せることになる。

移り来し村は住みよし梅早し

「女は怖い。」とは三太楼の口癖だったようであるが、ユーモアを備えた、純朴で飾り気のない人柄は「今良寛」として周りの人たちから慕われていたという。

春水や子に倚り添はれ濯ぎもの

村会のもめもおさまり麦は芽に

尼さまに尼さまの客菊日和

風鈴や寺のくらしも少し楽

寺に生れ寺に嫁ぎて盆の月

こうした句からも、当時の寺を中心としたコミュニティの中で、決して豊かではないが、のどかで平和な人々の暮らしぶりが見えてくる。目に映る日常をなんら飾り立てることなく素直に俳句に描写することによって、どれも実際の景色でありながら、どこかジブリ映画のワンシーンでも見ているかのような不思議な空間が一句一句から立ち上がってくる。そして、そこには寺の暮しを愛し、村の暮しを愛した三太楼の優しい眼差しを感じることが出来る。

さて、三太楼はいつごろから俳句を詠んでいたのだろうか。当時の西三河はずいぶんと俳句が盛んだったらしく、後に飯田蛇笏の主宰誌となる「雲母」もこの頃にこの地の若い俳人たちによって立ち上げられ、蛇笏を選者に迎えたのが発祥である。もちろん、三太楼も蛇笏の選を受けるべく「雲母」に投句していたようであるが、彼の場合は大正七年に「ホトトギス」、「雲母」へ投句をはじめると、その後、「玉藻」、「若葉」、「かつらぎ」、「夏草」、「万緑」、「笛」、「芹」、「年輪」、「竹島」、「若竹」、「白桃」、「朝日俳壇」、「毎日俳壇」、「中日俳壇」などなど、可能な限り、ありとあらゆるところへ投句をするという熱の入れ方だったようである。何がそれほどまでに彼を俳句に駆り立てたのだろうか。ともあれ、彼は句会となればどんなに悪天候でも、どんなに遠くへでも自転車で出掛けて行き、その不自由な左腕ゆえのぎこちない自転車の乗り方と、ロクに洗濯もしなかったという僧衣を何枚も重ねて着ぶくれた姿は彼のトレードマークだったようである。 

俳僧のいつもの紺衣着ぶくれて 松本たかし

日盛りの一客伊沢三太楼 高野素十

「三太楼句集」の冒頭に序文代わりに置かれた二句である。たかしの句については「松本たかし先生、在世の或る日、碧南市棚尾町、古久根蔦堂庵氏宅に歓迎句会の際、松本たかし先生より直接あなたの写生句だと言つて短冊に書いてくださつた句」、素十の句については「昭和四十二年八月七日 岡崎市大樹寺吟行、名鉄寮句会の際、高野素十先生より俳句用箋に書いてくださった句」と注釈がある。この二句からは三太楼の人なつっこい人柄が実によく伝わってくる。

 三太楼は俳句に血道を上げ、彼の生活の中にはいつも俳句があったわけだが、彼は決して自己表現の手段として文学的な志や野心をもって俳句に取り組んでいたということではなかっただろうと思う。俳句は生活の一部として常に三太楼に寄り添い、そして三太楼も俳句に寄り添うという間柄である。俳句とは本来、庶民の生活に根差した文芸という側面を持っている。三太楼のこうした俳句との付き合い方は、言ってみれば俳句のひとつの理想的な在り方のようにも思える。

 さて、せっかくなので、ここで、この無名の俳人の句をもう少し紹介してゆくことにする。

大鍋の蓋新しき雑煮かな

 鍋の蓋だけが新しいというのが眼目。それは日常の中の小さな喜びであり、句は鍋を囲む人たちの素朴な表情を映し出している。

一茶忌や孫も知りゐて一茶の句

 ああ、そういえば、三太楼句には一茶句に相通じる土着性がある。

泥鰌田螺ころがし逃げにけり

 泥鰌が逃げる瞬間をコミカルにとらえた佳句。泥んこになって泥鰌を追う楽しそうな様子が思われる。「泥鰌掘る」という冬の季語があるが、この句からはのどかな春の景を思い浮かべる。

一軒家出でて来し子が麦踏める

「歩み来し人麦踏をはじめけり 高野素十」を思わせる一句。もしかしたら三太楼には素十の句が念頭にあったのかもしれない。彼は他に「麦車落ちし麦束立ち倒れ」のような確かな写生句も多く残している。

秋の村今も貧しく住みよかり

 「貧しく住みよかり」とは三太楼の実感なのであろう。高度経済成長期に生れ、バブル期に青春を過ごした私のような者にとっては、この貧しくて住みよい村の生活というものが、どういうわけか桃源郷のように輝いて見えるのである。

その後は寺に間借や走馬灯

 三太楼は、八十歳でその生涯を終えるまで、彼が離婚後に身を寄せた浄光寺に暮し、僧名を観了と名乗った。仏法と俳句、そして村の人々との交流は、結婚に破れ、左腕が不自由となった三太楼の心をどんなに癒してくれたことだろうか。浄光寺の境内に建てられた句碑には彼の次の句が刻まれている。

鶯の声遠き日の写経かな

 はたして三太楼のような俳人は日本中にどれくらいいるのだろうか。決して俳句史に名を残すことはなくとも、私は彼のような存在を愛おしく思い、且つ、その在り方を俳人の本来在るべき姿として尊敬する次第である。

 

 

 

伊沢三太楼三十句抄

大鍋の蓋新しき雑煮かな

月の出や再び麻に通り雨

夢覚めて隠し子偲ぶ布団かな

春水や子に倚り添はれ濯ぎもの

瓜番もして兄弟の渡舟守

句姉妹器量よしなり星まつり

風邪の子を背負うて野辺の送りかな

一茶忌や孫も知りゐて一茶の句

村会のもめもおさまり麦は芽に

納屋も亦大藁家なる牡丹かな

僧逃げて寺荒るゝまゝ水鶏鳴く

水論に敗けて戻りて弥陀づとめ

泥鰌田螺ころがし逃げにけり

尼さまに尼さまの客菊日和

風鈴や寺のくらしも少し楽

移り来し村は住みよし梅早し

一軒家出でて来し子が麦踏める

後添ひのきまりし父と畦を塗る

この村の尼に拾はれ入学す

逃げし婢の戻りゐし茶屋山笑ふ

夜店見に今は人妻子を連れて

瓜盗人舟で来ることわかりけり

麦車落ちし麦束立ち倒れ

隠し子の今は和尚や盆施餓鬼

寺に生れ寺に嫁ぎて盆の月

男の子つれて嫁ぎし湯女の秋

秋の村今も貧しく住みよかり

その後は寺に間借や走馬灯

逗留の長びく窓の柚子は黄に

枯山の墓かたまりて村に向き